113.『懐かしい匂い』
[ 『眠り』 の一部分を膨らませたお話です。 7歳頃のベジータが登場します。]
強くなることにしか、興味がなかった。
誰よりも力をつけて、目の前にいる敵の 息の根を止めること。
それしか関心がなかった。
人里離れた場所に建てられた、まるで城を小さくしたような屋敷。
そこに隠れ住んでいた、女の姿を目にするまでは。
入口の周りは まずまずの戦闘力を持った兵士が見張っていたが、
空中からならば簡単に窓のそばに行ける。
宙に浮かんだ俺の姿に気付いた女は、最初こそ驚いた様子だったが
じきに笑顔を見せるようになった。
あまつさえ、小さく手まで振ってやがる。
ある日、女は 俺に向かって手招きをした。 窓越しに。
俺は 窓からではなく、堂々と入口の前に立った。
扉が開き 侍女らしき者とともに、その女が出てきた。
女は短い言葉で、侍女と兵士に 下がっているよう命じる。
俺は まず、一番知りたいことを口にした。
「異星人の貴様が 何故この星で、こんな暮らしをしている?」
そうだ。 その女の瞳と長い髪の、不思議な色。 明らかに、別の星の人間だ。
だが、兵士や使用人は 尻尾の付いた立派なサイヤ人だ。
女は何も答えずに、口元に笑みを浮かべながら 俺の顔を見つめるだけだ。
俺は、屋敷の内部をぐるりと見回した。
「大きさは違うが、造りが城と似ているな。」
「そうね。 わたしも、そう思うわ。」
「まるで城の中に入ったことがあるような口ぶりだな。」
ようやく答えを返した女に、俺は続けて言った。
「貴様のような者が、城の中に入れるわけがないだろう。」
「住んでたのよ。 ここに来る前まではね。」
住んでた、 だと? 王族の住まいである城に、異星人の女が?
「やっぱり、覚えてないのね・・。」
女は、わけのわからない言葉を小さくつぶやく。
「貴様、 名前を教えろ。」
「名前ね・・。 あんまり呼ばれないから、忘れちゃったわ。」
「嘘をつくな。 そんなはずはない。」
怒鳴っても、睨みつけても、女の表情におびえの色が浮かぶことはなく、
ただ 微笑み続けている。
子供だと思って バカにしているのか、それとも頭が少しおかしいのか。
「また来てくれたら教えるわ。」
窓の向こうにいた時と同じように、小さく手を振って
女は言った。
だが それから何度行っても、女は自分の名前を口にしない。
「本当に忘れちゃったのよ。 この次までに、思いだしておくわ。」
質問を換えても 笑いながらはぐらかし、最後にはこう答えるようになっていた。
「あんたのお父さんに、聞くといいわ・・。」
「父上は、こんな所に 何をしに来てるんだ。」
表情から笑顔が消えた女に、俺は別の言葉をかけた。
「おかしな色だな。 その瞳も、髪も。」
本当は、色だけじゃない。
背中まである髪には艶がありすぎるし、同じ色の睫毛に縁取られた瞳は大きすぎる。
おまけに 肌の色が、白すぎる・・・。
「あんたは瞳も髪も、真っ黒ね。」
「当たり前だ。 サイヤ人の髪と瞳は、黒と決まってるんだ。」
「そうね・・。」
女の指先が、俺の髪に触れる。
その手を払いのけることは、何故かできなかった。
ある日のこと。 スカウターが、大きな戦闘力の数値を示した。
あの、屋敷のある方角だ。 嫌な予感に駆られた俺は、先を急いだ。
入口を護る兵士は、もう俺を止めることはない。
中は特に変わっておらず、誰かに踏み込まれたわけではないようだ。
だが 兵士も侍女どもも、やけに意味ありげな表情で
お互いの顔を見合わせていた。
「おい。 どこだ。」
名前を知らないから、呼びにくい。
女は、これまで一度も入ったことのない 奥の部屋の扉の向こうにいた。
寝乱れたベッドの上でうつ伏せになっている。
俺に気付くと しどけなく体を起こし、腕を伸ばしてきて
髪に触れた。
「ずぶぬれじゃない・・・。 外は雨だったのね。」
女は、何も身につけていなかった。
「体を洗うわ。 あんたも来たら。」
女が、また別の部屋の扉を開ける。 温度と湿度が高い。
「なんだ、ここは。」 「浴室よ。」
浴室だと? 槽の中の液体は、湯なのか?
俺に告げた後、女は慣れた様子で体を流し、槽の中に体を沈める。
抵抗があったが、メディカルマシンのような物だと考えて
俺も同じようにした。
「こんな所で体を洗うのか。 原始的だな。」
「こうしてお湯につかってると、心が落ち着くのよ。」
「フン、 まるで下級戦士の奴らが好む 水浴びみたいだ。」
女の、普段は 貫けるように白い肌が、湯の中では 薄い桃色に変わる。
そして 胸の辺りには、小さな痣がいくつも見える。
赤紫色のそれが何なのか、どんな理由でついたのか、
その頃の俺は まだ知らなかった。
問いただそうとした時、 女が先に口を開いた。
「王妃様は、あんたに優しい?」
「王妃・・ 母上のことか?」 女は黙っている。
「わからん。 あまり話をしない。」
本当に、そんなことは ほとんど考えなかった。
他の星の奴は知らんが、サイヤ人は もともと、親子の関わりが希薄なのだ。
下級戦士は生まれて間もない我が子を 辺境の星に送り出してしまうし、
戦闘力、つまり身分が高い者は 自分の手で子育てなどしない。
ただ、母上の・・ 弟と俺への態度の違いには気づいていた。
「暑い。 先に出るぞ。」 「待って。」
湯の中から 立ちあがった瞬間、女に尻尾を掴まれた。
「ふふっ。尻尾も鍛えなきゃダメね。」
「くそっ、 何をしやがる・・」 畜生。 尻尾のない女め・・・
非力なはずの女に、簡単に引き寄せられてしまう。
華奢な二本の腕が、俺の背中にまわされる。
力が入らないのは、尻尾のせいだけではなかった。
目の前にある、やわらかな胸の匂いを吸い込む。
女が、微かな溜息をつく。
唇を離すと、痣の色が一層 濃くなったように見えた。
その日、 俺を見送りながら 女は言った。
「名前、教えてあげるわ。」
そして 視線を上げた俺に向かって、ある二文字を口にした。
「それが、おまえの名前なのか?」 「・・呼んでみて。」
言うとおりにしてやった。 女の青い瞳からは、一筋の涙が流れていた。
その後、数日の間 宇宙へ出ていた俺がその場所を訪れると・・・
屋敷がなくなっていた。
きれいさっぱり、 跡形もなく。
城へ戻った時、 いつもは目を合わせようとしない母上が、
俺の顔をしきりに見つめていたことを覚えている。
赤ん坊の泣く声が聞こえる。
「よしよし、泣かないの。 ママはここに、ちゃんといるわよ
・・・ 」
ブルマが、トランクスと名付けた赤ん坊をあやしている。
ママ。 あの時、女は俺に、そう呼ばせた。
あの女は、失った自分の子供と 俺を重ね合わせていたのだろうか。
それとも、あるいは・・・。
王だった父は死んだ。 当時を知る者も、俺には口を割らないだろう。
「やれやれ、 やっと眠ってくれたわ。」
俺は 部屋に戻ってきたブルマを、仰向けにした。
「ふふっ・・ トランクスの甘えん坊は、あんたに似たのね。
困っちゃうわ。」
含み笑いをしているブルマの衣服を剥がし、白い胸に顔を埋める。
きっかけは違っていても、俺は結局 父と同じことをしている。
だが、同じ轍は決して踏まない。
ブルマが俺の子を慈しむのは、 心と体を俺に開くのは、
憎悪と孤独から 自分の心を守るためなのかもしれない。
それでもいい。 生きている限り、俺はブルマを手放さない。
俺は、この女を ・・・
やわらかく温かな胸からは、それまでとは少し違う、母親の匂いがした。