『天使を誘惑』

久しぶりに早めに帰宅しようとしていた日。

信号待ちの車の中から、よく知っている女の子の姿を見つけた。

 

窓を開けて声をかける。 「パンちゃん。」

「トランクス。 久しぶり・・・。」 「帰るんなら、送ってあげるよ。」

「遠いから悪いわ。」  「だから送るんだろ。」 

遠慮する彼女を助手席に乗せた。

 

「もうちょっと人通りが少ない道に入ったら、飛んで帰っちゃおうと思ってたの。」

彼女は笑いながら、勉強が忙しくなるから もう辞めるつもりだけれど、

放課後に ファーストフード店のアルバイトをしていることなんかを話してくれる。 

お小遣い稼ぎというよりも、家族へのプレゼントを買いたいそうだ。

「いい子だな、パンちゃんは。」  運転しながらおれは続ける。

「ブラなんて、誰かれ構わずつっかかってばかりだよ。

・・・でも近頃はおとなしくなってきたかな。」

 

ここ何年かのブラは、本当に扱いにくかった。

母さんへの劣等感のせいなのか、高校もおれや母さんの母校へは進まなかった。 

だから、パンちゃんとも別の学校だ。

ブラが落ち着いてきたのは、好きな男ができたせいだろう。

相手は わかってる。  けど、それは、まぁ いい。

 

おれは尋ねてみる。 「パンちゃんは、ボーイフレンドがいるんだろ?」

「いないわ。」 あっさりと答える。

「へぇ。そんなにかわいいのにな。」  

「そんなこと、家族以外からは言われたことない・・・。」

「学校やバイト先の奴らだって、そう思ってるさ。  まだガキだから伝えられないんだよ、きっと。」

少しだけ困ったように彼女はつぶやいた。 

「わたしだって、子供だもの。」

 

数分程の沈黙のあと、彼女の方から口を開いた。 

「トランクスは、恋人がいるんでしょう?」

「いないよ。」  おれも あっさりと答える。

「そんな、嘘よ。」  「なんでそう思うの?」  おれの問いかけに、彼女はこう答えた。

「トランクスを嫌いな女の子なんて、いないと思うから・・・。」

「そうかな。」  彼女の素直さに、なぜか意地の悪い気持ちがわきあがってきた。

「だけどおれには、本当に好きになってくれる子もいないんだよ。」

 

しばらくのちに、彼女の家の近所に着いた。 

「ここでいいわ。どうもありがとう・・・。」

おやすみ。 勉強 がんばって。 そう声をかけようとした時、

おれの頬にシートベルトを外した彼女の唇が触れた。

 

・・それは、母さんがしてくれるキスに似ていた。  

励ましみたいな、労わりのような、優しくて短い・・・。

そんなキスさえも、父さんは決しておれに許そうとはしない。

母さんのすべてが自分のものでなきゃ、気が済まないんだ。

おれは、車から降りようとしていたパンちゃんの手首をつかんで 自分のほうに引き寄せた。

「なぐさめてくれようとしたんだね。 でも、だったら・・・ 」  

こうしなきゃダメだよ。 

 

やわらかな、小さな唇を貪る。

つややかな髪と同じ色の長いまつ毛は震えていて、

濡れたような黒い瞳は見開かれたままだった。