おれの母さんは昔、人魚だった。
占いババと呼ばれる魔女の 特別製の秘薬の力で、今の姿になった。
陸に棲む人間である 父さんとの恋を、実らせるために。
その子供である おれには、尾も鱗もついていない。
だけど、覚えていないくらいチビだった頃から、誰にも教わらなくても すいすい泳げた。
それに、うんと長い時間 水に潜っていても へっちゃらだ。
海は大好きだ。
イヤなことも 大変なことも、泳いでいる時には忘れている。
13歳になった ある日。
これまでになかったくらい、深い所まで潜ってみた。
そしたら 驚いたことに、大きな、まるで 城みたいな建物があった。
そして もっと驚いたのは… 中から人が出てきたんだ。
人魚だ。
腰から下は魚そのもの、 でも その他は おれたちと同じに見える。
年をとった、男の人と女の人だ。
仲が良さそうだから、夫婦なのかもしれない。
身構えたけど、何もされなかった。
それどころかニコニコしながら、おれが使うのと同じ言葉で話しかけてくる。
「ブルマは元気かい? 幸せなのかい?」
…
もしかして、この人たちは…。
疑問はすぐに、確信に変わった。
少し離れた場所から、人魚の女の子が こちらを見ていた。
それに気付いて、男の人が言ったんだ。
『おいで。 大丈夫だよ、悪者じゃない。 この子はね、私たちの孫なんだ。』
やっぱり そうか! この人たちは、母さんの両親。
おれの おじいちゃんとおばあちゃんだ。
そういえば おじいちゃんの髪の色は おれに似ているし、
おばあちゃんの顔は、母さんの笑顔に そっくりだ。
おばあちゃんの方も、女の子に向かって手招きをする。
『怖くないわよ。 いらっしゃい、パンちゃん。』
黒い髪と瞳の、人魚の女の子。
パンちゃんという名の その子は、おれと同じか、いくつか年下に見えた。
おそるおそる近づいてきたけれど、おれと目が合うと、素早く その場を離れてしまった。
陸に上がって 城に戻り、それらの出来事を話した。
母さんは泣いていた。
そうだよな。 10何年かぶりに、なつかしい両親の話を聞かされたんだもの。
その後 おれは、パンちゃんという子の話もした。
涙を拭いながら、母さんは こう口にした。
[ 仕方ないわよ。 人魚は用心深いの。 陸の人間のことを、とても怖がってるのよ。 ]
口にした、というのは この場合、しゃべったという意味ではない。
言いたいことがある時、母さんは相手の手をとって、指先で言葉を綴る。
だけど よく見ると、口が先に動いている。
そう。 今のは、口元から言葉を 読み取ったんだ。
母さんは声を出せない。
恋をして、どうしても陸で暮らしたくて、魔女と取引をしたためだ。
だから おれは、母さんの声を聞いたことがない。
トランクス、と呼んでもらったことがない。
その翌年、母さんは赤ん坊を産んだ。 おれの妹だ。
おれと同じく、尾も鱗もない。 けど きっと、泳ぎがうまくなると思う。
でも 女の子だから、おれほどは自由にさせてもらえないかもしれない。
『妹を護ってやれ。』
父さんに、そう言われた。 もちろん、そうするつもりだ。
けど実は、 おれの心のほとんどは、別の女の子のことで占められていた。
その女の子は、海の中に棲んでいる人魚だ。
何度も通って、少しずつ仲良くなった。
今ではパン、と呼び捨てにしている。 パンも おれのことを、トランクスと呼ぶ。
以前、パンが言っていた。
『陸の男の子のくせに、どうして こんなに泳げるんだろう、
潜っても平気なんだろうって不思議だったの。 ブルマ姫の子供だったのね。』
母さんは、この広い海の お姫様だったんだ。
父さんのために、その暮らしを捨てた。
『姫がいなくなって、王様とお妃さまは とっても悲しんだのよ。
でも魚たちから、ものすごく泳ぎのうまい男の子がいるって聞いてから、だんだん元気になったの。』
おれのことだね。
会う前から 母さんの子供だって、自分たちの孫だって わかってくれてたんだ。
彼女に会うため、今日も海に潜った。
かわいい声で、まるで歌うように話すパン。
「陸の女の子は、ドレスっていう 裾の長い服を着てるんでしょう?
いいなあ。 それを着て、踊ってみたいな。」
くるくると、廻って見せてくれる。
「かもめより ずっと小さい、きれいな声で鳴く鳥もいるんでしょう?
見てみたいな。 一緒に歌いたい!」
「…。」
もし、もしも パンが母さんのように、海での暮らしや尾っぽを捨てて、二本の脚を手に入れたとしたら。
歌うことは おろか、話すことさえ できなくなるんだ。
もちろん、軽やかに踊ることなんて、できるはずもない。
「どうしたの?」
心配そうに、おれの顔を覗き込むパン。
「なんでもないよ。 …そうだ。 どっちが速く泳げるか、競争しよう。」
「うん!」
ところでパンは、二枚の貝殻を使って 胸を隠している。
人魚は衣服を着けないそうだけど…
陸で暮らしている おれの前では、裸でいるのは恥ずかしいのだろう。
もしかすると、初めて会った日の あの態度は、そういう理由もあったのかもしれない。
今は とても、楽しげに笑っているパン。
「トランクスは本当に泳ぎがうまいわ。 ここで暮らせばいいのに…。」
「うーん、さすがに そこまでは、息が続かないよ。」
自分でも わかっていた。
今のおれは 海よりも、泳ぐことよりも、パンのことが一番好きになっていたんだ。
その日の別れ際、パンの小さな唇に、そっと 短いキスを贈った。
水の中で暮らしているくせに その唇は紅く、柔らかく、そして とても温かかった。
海面に顔を出し、パンはいつまでも ずっと、おれを見送っていた。
あの日から もう何日も経ったというのに、トランクスが姿を見せない。
唇に、指で触れながら考える。
どうしてなんだろう。 勉強や、体を鍛えることで忙しいんだろうか。
それとも、何かあったのだろうか。
それとも…。
もしかすると、単に飽きてしまったのかもしれない。
泳ぐこと、海に潜ること、わたしに会って、いろんな話をすることに。
陸には きっと、楽しいことが たくさんあるのだ。
わたしの他にも、たくさんの友達がいるのだろう…。
それなのに、時間になると 様子を見に行ってしまう。
すれ違った仲間の一人に、意地の悪いことを言われる。
王様の孫とはいえ、陸の男の子であるトランクスと親しくすることを、よく思っていない仲間は多かった。
「あいつ、今日も来ないのか。 よかった、よかった。 もう来なきゃいいな。」
…
カッとなって、胸に着けていた貝殻を投げつけた。
「いてっ! ひどいなあ、何するんだよ。」
投げた貝殻が当たったのは、悪口を言っていた仲間ではなく、ようやく現れたトランクスだった。
「どうしたのよ! もう来ないかと思ったわよ!」
ああ、こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。
おまけに、なさけないことに 涙までこぼれてくるではないか。
「ごめんよ、心配かけちゃったね。 ちょっと忙しかったんだ。
母さんが熱を出しちゃったから、まだ小さい妹の相手をしてやってた。」
あわてた様子で、頬を拭ってくれようとするトランクス。 もともと、水の中だっていうのに…。
涙は止まった。 でも その代わり、こんな言葉がこぼれ出る。
「わたしも、陸で暮らしたい。」
「… え?」
「トランクスを、待ってばかりいるのはイヤなの。
わたしもブルマ姫みたいに、陸の女の子になりたい。」
「ダメだよ。」
トランクスの声は、何だか 怒っているみたいだった。
喜んでくれなかった。 賛成してくれなかった。
「おれの方から会いに来るよ。 ちょっとの時間でも、毎日来る。 約束するよ。
だから もう、そんなことは言わないでくれ。」
そう言ってトランクスは、落ちた貝殻を拾ってくれた。
そんな物、すっかり忘れていた。
「いらない。」
「? どうして? 」
遠慮して、目を逸らしているトランクス。
「見たっていいわ。 わたしは人魚だもの、別に 恥ずかしくなんかない。」
「パン…?」
触ってもいいのよ。 それは言えなかった。
でも その代わりに、彼の手を取り、胸に当てさせる。
トランクスは何も言わない。
けれど しばしののち、ゆっくりと、指を動かし始めた。
ああ、と声を上げたくなる。 だけど、我慢する。
その手を、まだ離してほしくないから。
切なくて、どうしようもない気分になる。
焦れたような、焦がれるような、いてもたっても いられない気持ち。
誤って溺れ、もがきながら 沈んでゆく、かわいそうな 陸の女の子のように…。
その夜。 わたしは家を抜け出して、占いババの住処を訪ねた。
「よく来たね、お嬢ちゃん。 お入り。 おまえさんの願いは わかってるよ。」
二人の息子であるトランクスを主人公にした お話です。]