074.『故郷』

わたしたちの息子であるトランクスは、3歳になった。

病気一つしない丈夫な子で、力も とても強い。

本人の希望により もう、剣や武術を習い始めている。

ベジータが、手ずから教えることもあった。

 

反対の声が高く、かなり揉めていたようだけど、少し前に 彼は王位を継いでいた。

亡くなった 前の王の、たっての願いらしい。

出自が明確でない わたしは、王妃にはなれない。

だからベジータは、対外的には まだ 独身ということになっていた。

それでも 他の女を寄せ付けたりはせず、

近隣諸国からの結婚の申し込みも断り続けていた。

 

ベジータの、事実上の妻は この わたし。

何年経っても変わらずに、夜はベッドで抱かれて眠る。

そして、元気で かわいいトランクス…。

口がきけなくても、優雅に歩くことが叶わなくても、わたしは とても幸せだった。

 

けれど ある日。

幸せな日々の暮らしを、打ち砕く事件が起こった。

その日 ベジータは、領地の視察のため 遠方に出ており不在だった。

それを狙って、見知らぬ男たちが押し入ってきた。

兵たちの姿は、何故か見えなくなっていた。

脅かされて追い払われたか、あるいは買収されたのかもしれない。

幼いトランクスだけが、母である わたしを護ろうとした。

剣を抜き、全身でぶつかっていったけれども、多勢に無勢だった。

最後には 硬い床の上に、叩きつけられてしまった。

 

トランクス! 叫ぶ代わりに、覆いかぶさる。

これ以上、ひどい目に遭わされることのないように…

けれども。  「! … !」

背後から、肩を掴まれ、引きはがされる。

男たちの中の一人が、わたしに向かって ささやいた。

「おとなしく言うことを聞きな。 そうすれば、坊ちゃんは このまま見逃してやる。」

坊ちゃんというのは、トランクスのことだ。

そう。 この子もまた、王となったベジータの実子でありながら、王子とは呼ばれていなかった。

つまり、とても あやふやな立場だ。

何か あったとしても、捨て置かれるかもしれない。

「…。」

わたしに、選択肢は無かった。

 

両手首を 腰の位置で固定され、目元を布で覆われた。

担ぎあげられ、荷台らしき物の上に乗せられ、しばらくの間 揺られた。

どのくらい経っただろうか。

ようやく、目的地に着いたようだ。

牢のような所に監禁されるという、わたしの予想は大きく外れた。

連れ込まれたのは、そう大きくはない屋敷だった。

 

手は、縛られたままだ。 目隠しは はずされた。 けれど、今度は口を塞がれる。

何故? 声を出せない わたしには、必要ないのに。

理由は、すぐにわかった。

舌を噛んで、自死させないためだ。

部屋の隅の粗末なベッド、寝台の上に寝かされた わたしに、男が のしかかってきた。

縛られて、押さえつけられ 為すすべもない。

すぐに終わったことが、せめてもの救いだった。

ただし、一人目は。

次の男、その次、また次…  おぞましい、耐えるだけの時間が続いた。

 

ピチャ、ピチャ。

開いていない体の奥から、沼地のように湿った音が 響き渡る。

それは一滴残らず、男たちの体から吐き出されたものだ。

絶対に、そうに決まっている。

会話が、耳に届く。

「あー、たまんねえ…。 王子、いや 今は王か。奴の気持ちが よくわかったよ。」

「殺さなければ 自由にしていいなんて、役得だな。」

… 

この男たちは、誰かの手駒なのだろうか。

ベジータに何かを、要求する気なのだろうか。

 

その時。

大きな、何かを破壊するような音が聞こえてきた。

風雨が 部屋に吹き込んでくる。 ドアが、蹴破られたのだ。

いつの間にか、外は嵐になっていた。 ああ、海は さぞ、荒れていることだろう…

男たちが、剣を抜いて構える。

ベジータが、来てくれた。

 

雨に ひどく打たれたのだろう。 服も 髪も、ずぶ濡れだ。

でも そんなことを思ったのは、ほんのわずかの間だった。

剣で、あるいは拳で、屈強な手練れの男たちを蹴散らし、倒す。

おびただしい量の返り血を浴びながらも、それでも容赦などしない。

男たちのうちの一人が、逃れて外に出て行った。

追いかけようとした彼は、床に倒れていた男に、まだ息があることに気付いた。

手にしていた剣で、さらに刺す。

何度も、繰り返し 切りつける。

まるで、全ての憎しみを込めるかのように。

もう、とっくに死んでいるのに、それでも…。

 

わたしは はっとした。

ベジータの この怒りは、わたしのためだけではない。

トランクスは!?

どうなったの? 大丈夫なの?

肩を掴んで揺り動かし、大声で尋ねたいのに。

今 この時ほど、口がきけないことが、もどかしいと思ったことはない。

けど、わたしの言いたいことを、ベジータは理解してくれた。

「トランクスは無事だ。」

そう短く答えると、彼は わたしを抱き寄せた。

 

先ほどの ベッドの上に倒れ込み、両腕で抱きすくめられる。

抱いてほしいと思った。

そうすることで、忌わしい記憶の全てを塗り替えてほしかった。

なのに 彼は、そうしてはくれなかった。

でも わたしは、泣くことができなかった。

何故なら…。

ベジータの腕の中、わたしは必死に手を伸ばし、彼の頬を拭おうとする。

黒い瞳から、涙が溢れる。

止め処のないそれは 赤黒い血とともに、頬をつたって落ちていった。

わたしたちは、長いこと そのままでいた。

 

何時間かが経ったのち。

彼は起き上がり、はずしたマントで わたしを包み、抱え上げた。

嵐は過ぎ、外は すっかり晴れていた。

人魚ではなくなった あの日も わたしは、こんなふうに大切に、抱えられていたのだろう。

 

城へ戻る途中。 一人の男が死んでいるのを見た。

雨で足を滑らせて、崖から落ちたらしい。

例の男たちの中で唯一、外へ逃げ出した奴だった。

 

帰路、ベジータは ただ一度だけ口を開いた。

「トランクスを、強くしてやるつもりだ。 この俺よりも、もっとだ。」

[ そうね。 ]

彼の手を取り、指先で綴る。

[ 愛する人を護れるように。 あんたと、同じように。]

その直後、彼は わたしの手を握り締めた。 

わたしが 顔を見るよりも先に。

 

帰り着くと、城の雰囲気は さらに悪くなっていた。

ベジータが、わたしの居場所を問い詰めるため、何人かの重臣を殺したためだ。

 

そんな中でも 夜が来れば、わたしたちは一緒に眠った。

けれど、変わってしまったことがある。

彼は、わたしを抱かなくなった。

伸ばした腕を枕にし、指先で髪を梳いて、唇を合わせる。

着ている物の前をはだけて 唇を当て、肌の匂いを吸い込んでいる。

これまでと同じだ。 なのに、それ以上のことはしない。

つらかった。

けれども わたしは、耐えることにした。

 

周りの者たちが口にしていた噂話、それに あの日のベジータの様子をかんがみて、

わたしは一つの仮説を作り上げていた。

ベジータの母親は、彼が まだ幼い頃…

今のトランクスと、同じ年の頃に亡くなった。 殺されたのだ。

しかし 後ろ盾も無く、正式な妻ではなかったために、その事実は闇に葬られた。

そして、幼かったベジータは その地獄の一部始終、全てを見ていた。

尋ねても、誰も答えてくれないだろう。

だけど おそらく、そう違ってはいないと思う。

 

月日は流れ、十年が経った。

すくすくと大きくなったトランクスは、もうじき青年の入口に立つ。

まったく 陸の人間にしか見えない子だけれど、驚くほどに泳ぎがうまい。

学ぶこと、鍛えることに追われる日々の中で、

海に入ることは ちょうどいい気分転換なのだろう。

 

ある日。

海から上がったトランクスが、わたしに向かって こう言った。

「今日は、うんと深くまで潜ってみたんだ。 

そしたらね、まるで お城みたいな建物があったんだよ。」

「…。」

「で、思い切って近づいて行ったら… びっくりしたよ。人が出てきたんだ。

 ちょっと年取った、男の人と女の人だよ。 もしかしたら夫婦かな。

 身構えたけど、何にもされなかった。 それどころか、ニコニコしながら話しかけてくるんだ。」

もしかして、もしかして それは…。

わたしはひたすら、息子の 次の言葉を待った。

「おれたちと、同じ言葉を話してたよ。

 ブルマは元気か、幸せかって、聞かれたよ。」

 

[ 何て、答えたの?]

手を取って、指で綴って尋ねる。

「元気だよ、幸せだと思うよ。 

父さんとおれがいて、それに来年は、弟か妹が生まれてくるんだよ。」

そう答えた後、トランクスは そっと、わたしのおなかに手を当てた。

頬に、熱いものが流れる。

いつも思うことだけど、その味は、海の水に よく似ている。

 

青く、きらめく海は わたしの故郷。

戻ることは もう出来ず、ただ 眺めるだけだ。

それでも わたしは、とても幸せ。

この先、何が起こっても。