138.『海』
[ 管理人の作品にしては長めになってしまいましたが、
敢えて分けずにup致します。]
『この世で最も恐ろしい生き物、 それは陸に棲んでいる人間だ。
だから 見つかったりしないよう、くれぐれも気をつけなくてはいけない。
向き合って 言葉を交わすなど、とんでもないことだ。』
物心のつかないうちから、何度となく聞かされてきた
その言葉。
なのに、わたしは従わない。
だって 海の底の世界は平和だけれど 、ひどく退屈だ。
陸に棲む人間たちの乗っている船、身に着けている物、
それに不思議な暮らしぶり。
それらを盗み見ている方が ずっと楽しい。
ギリギリまで近づいていくことも多いから、漁師や船員に、見つかってしまったこともある。
だけど、捕まりっこない。
泳ぐスピードには自信があるし、風や潮の流れを読むのだって
お手のものだ。
だから、油断した。
ある夜、 わたしは捕らえられた。
信じられないことだけど、大きな船が下ろしていた網に、引っ掛かってしまったのだ。
迂闊だった。
漁船ではないからと、近づきすぎてしまった。
網を引き揚げたのは、一人の男だった。
逆立った黒い髪、同じ色の瞳。
体は大きくないけれど、もう少年ではない。
良い身なりをしている。 意外と、高い身分なのかもしれない。
でも、 そういう人が どうして、夜 一人で
こんな所にいるのだろう。
男は言った。
「まさかと思っていたが、噂は本当だったようだな。」
ああ、よく通る声も、まるで 少年のようだ。
「人魚の肉を食うと 不老不死になるという話も本当か?
面白い。さっそく、試してやると するか。」
… ちょっと!
「冗談じゃないわ、迷信よ、そんなの!」
わたしの声に、男は驚いた顔をした。
「ほう、 言葉を話せるのか。」
「バカにしないで! 人魚は知的生命体よ!
海に棲んでるってだけで、あんたたちと変わらないの!」
男が、距離を縮めてくる。
「な、何よ …」
今 わたしは、網から引きずり出されて、甲板の床板の上にいる。
何とか、逃げ出せるかもしれない。
なのに、動けない。
自由なはずの両腕で、胸を隠しているためだ。
水の中に棲んでいるのだから 当然、衣服なんか着けていない。
それが、当たり前だと思っていた。
だけど、この男に体を見られるのは …
その 鋭い目で見つめられると、何だか
…
「きゃっ、」
手が伸びてきた。
手首を強く掴まれて、隠していた胸を 露わにされる。
凝視される。
いったい どんな顔をしているか、見てやりたい。
けれど、それは叶わない。 瞼が、開けられないのだ。
「ああっ … 」
手袋に覆われている、男の手のひら、そして指。
それによって まさぐられ、揉みしだかれて、体の奥がしびれてくる。
羞恥、 そして、生まれて初めて知る感覚。
でも、少なくとも 恐怖ではない。
幼い頃から聞かされてきた、もう一つの言葉を思い出す。
『陸の人間に捕らえられたら最後、すぐに殺されるか、そうでなければ
ひどい はずかしめを受ける。』
はずかしめ? これが、そうなのだろうか?
だとしたら、なんて …
ようやく瞼を薄く開けば、男の顔が すぐそばに、息がかかるほど
近くにあった。
唇を、男のそれに押し当てる。
驚いて、体を離すのではないか。 その隙に逃れ、海へ逃げ込む。
少しだけ、それも考えた。
けれど、男は そうしない。 やっと離れた唇で、こんなことを口にする。
「どうなっているんだ、貴様の体は …。」
わたしは、ちゃんと理解する。
どうやって交わるのか。 そう言いたいのだ。
やり方は、もちろん ある。
だって そもそも、わたしたち 人魚の祖先は
…。
だけど、イヤだった。 ひどく、恥ずかしいと思った。
同時に、強い思いが湧き上がってくる。
陸に棲む、女の姿になりたい。
鱗や尾の代わりに、しなやかな二本の脚が欲しい。
そして その付け根、ちょうど中間に、ついているのであろうもの。
広げられたい、触れられたい。
一気に、貫かれてみたい。
今 目の前にいる、この 男によって。
その時。
別の、何人かの人間、男たちの声が、耳に飛び込んできた。
「どこへ行っちまったんだ、王子様は。」 「まさか、気付かれたか?」
「しっ、 声を おとせよ。」
どういう意味? 疑問を口にするよりも早く、両腕に抱え上げられた。
たった一言、男は つぶやく。
「行け。」
「どうして? 逃がしてくれるの?」
答えない。 あっという間に、海に投げ込まれる。
他の男たちに、見つかってしまう前に。
「ちょっと! ねえ!」
行ってしまう。 もう、これきりになってしまう。
波間から顔を出し、わたしは必死に声を上げた。
「あんた、名前は 何ていうの?」
ややあって、男の声が聞こえてきた。
打ち寄せる 波の音に邪魔されながらも、わたしの耳は確かに、彼の名前を捕らえた。
「ベジータだ。」
その日から、わたしは すっかり変わってしまった。
あの男、ベジータのことが忘れられない。
頭 ううん、肌から唇から、離れないのだ。
冷たくて熱い、乱暴で、それでいて繊細な、あの感触が。
もちろん、誰にも打ち明けられない。
ことに、両親に知られたら … どんなにショックを受けるだろう。
一人娘である わたしを、自由にさせてきたことを悔やみ、自分を責めるに違いない。
それでも …。
思い余ったわたしは、占いババ、魔術使いの住まいを訪ねた。
「よく来たのう、お姫さん。 おまえさんの願いは
わかっとるよ。
欲しいもんは、これじゃろ?」
皺だらけの手の中には、小さな薬瓶が鈍い輝きを放っていた。
「この中の薬を飲み干せば、1〜2時間で尾っぽが消えて、代わりに
きれいな脚が生えてくるぞえ。
ただし そうなれば
もう、陸の人間と同じじゃからの、水の中じゃあ生きられない。」
「…。」
この世界を、故郷を捨てろと いうことらしい。
「それと、副作用があってのう。 あんまり、優雅には歩けないんじゃ。
一歩踏み出すごとに、刃物で切られるような痛みを
味わうことになる。」
「… どうにもならないわけ?」
「残念じゃが、ならんね。」
「じゃあ いいわ、それでも。 どうすれば
いいの?」
ごうつくばりで知られる この老女が、ただで薬をくれるはずがない。
「そうじゃな、おまえさんの、可愛い声をもらおうかの。」
「声? 話せなくなるってこと? でも
それじゃあ名乗れないし、気持ちを伝えられないわ。」
「じゃが おまえさんには最大の武器があるじゃろ。 その美貌と肉体じゃ。」
「わかった。 いいわ、好きにして。」
薬を受け取るべく、手を差し出す。
なのに占いババは、なおも言葉を続ける。
「おまえさん、そこまでして いったい、何のために
あの男に会おうとしているんだえ?」
「それは …。」
正直、あまり考えていなかった。
ただ もう一度会って、触れたかった。
だって わたしは まだ、自分の名前さえも告げていないのだ。
「愛の言葉を、あの男の口から聞きたいのかえ?」
「そうね、 そうかもしれない。」
「なら、愛してると言わせたら それで満足、作戦終了ということじゃな。」
何よ、 それって …
「愛してるって言わせたら、そこで わたしは死ぬってことなの?」
「せっかちな娘じゃのう。 だったら どうするんだえ?」
「いいわ。 それでもいい。」
「よう言った。 そこまでの覚悟があるなら、頑張るがよい。」
しわくちゃの顔をほころばせ、薬瓶を手渡してくれる
占いババ。
「幸運を、祈っておるぞ。」
その声は、何だか やけに優しげだった。
この時期にしては やけに波が高く、海は荒れている。
もしかして それは、男のために故郷を捨てようとしている
わたしへの怒りなのだろうか?
ううん、もう、考えたって仕方がない。
ベジータの乗っている船が見つかった。
よかった。
港に着いて、陸に上がってしまったら、探しにくくなってしまう。
何せ わたしは、声を、言葉を 失うことになるのだ。
陸の女になってしまえば もう、長い時間は泳げない。
かといって、人魚の姿のままでは、他の人間に見つかると危険だ。
だから 折衷案として、船を見つけたら薬を飲む。 そう決めていた。
握りしめていた薬瓶の蓋を開き、一気に飲み干す。
「うっ … 」
ひどい味。 むせて、思わず吐き出しそうになるのを
必死にこらえる。
体の中が、熱くなる。
下半身に視線を落とすと、わずかだけれど
尾が短くなり、
鱗の数が減っているように見えた。
その時、船の上から 誰かが落ちた。
自分から飛び込んだようには見えず、なのに
誰も助けに来ない。
気付かれていないの? それとも…
誰かに、突き落とされた?
イヤな予感が胸をよぎり、わたしは再び海へ潜った。
もう あまり、時間がなかったけれど。
予感は的中した。
海の中に沈んでいくのは… 「ベジータ!」
どうして、 どうしてなの?
この間、船の上で あんたを探していた、感じの悪い男たちと
関係があるの?
「ベジータ!」
まだ、声を発することができる。
呼びかけながら 両腕で、彼の体を捕らえる。
間に合った、 もう大丈夫。
そう思った瞬間、体の内側に、まるで焼け付くような熱さを感じた。
「…、 …!!」
本当だ、叫ぶことができない。 もう、声が出てこない。
そして、息も …
沈みゆく中、覚えているのは、望み通りの
しなやかな脚、
それと、ひどく驚いていた様子の、ベジータの顔だった。
目が覚めた時、わたしは陸にいた。
天井が目に入る。 続いて壁、窓から差し込む
まぶしい光、
ベッドと呼ばれている寝台 …
どうやら、誰かの家らしい。
扉が開き、若い女が入って来た。
「目が覚めただか! よかっただなあ。」
長い黒髪を結いあげた、特徴のある話し方をする女だ。
半身を起こす。 衣服を、着せられていることに気づく。
それについて、女は言った。
「おらの寝間着だ。 寸法が、ちょっと合わねえけど
…。」
確かに、胸の辺りが きつい。
「あんたの体は、女のおらにも目の毒だからな。」
そんなことを言って笑った。
ところで、ベジータは? やはり、声は出てこない。
けれど唇の動きから、女は察してくれたようだ。
「心配ねえだよ。 あっちでメシを食ってるだ。 腹が減ってたらしいな。」
そういえば食べ物の、いい匂いがしている。
声を潜めて、女は続ける。
「あの男、やけに威張ってると思ったら… 王族の人なのけ?
着てたもんに、王家の紋章がついてただよ。」
そうなのだろうか?
だったら何故、あんな仕打ちを受けるのだろうか…。
「恋人同士なんだべ? あんたのこと、そりゃあ大事そうに抱えてきて、
さっきまで ずーっと、この部屋にいただよ。」
ああ、 わたしは結局、彼に助けられたのだ。
かけてあった厚い布を払いのけ、初めて、自分の脚で立ってみる。
彼、ベジータの元に 駆けよって行くために。
なのに よろけて、無様に膝をついてしまう。
「大丈夫け? まだ無理しねえ方がいいだよ。」
女に、助け起こしてもらう。
倒れた理由は もちろん、立ちくらみなどのせいではない。
足に、切り裂かれるような痛みが走ったためだ。
何もかも、占いババの言った通りなのだった。
そんな中、食事を終えたらしいベジータが戻って来た。
わたしたちの様子を目にした女は、こんなことをぼやいていた。
「ひゃあ… まったく、目の毒だべ。
あーあ、おらの悟空さは、今頃どこにいるんだべか。
さっさと もらいに来てほしいもんだな…。」
女の父親に送ってもらい、わたしたちはベジータの住まいに
たどり着いた。
彼の住まい、 そこは城だった。
ベジータは王族の一員、 王位継承者だったのだ。
迎えに出てきた者たちの引きつった顔、慌てふためいた様子が忘れられない。
ともあれ、わたしは広い部屋を宛がわれ、王子の客人として持て成された。
ただし、表向きは。
痛みのせいで、おっかなびっくり足を踏み出すしかない
わたしが通ると、
忍び笑いが聞こえてくる。
悔しくて、歯をくいしばって耐えようとする。
背筋を、膝を伸ばして歩く。
目的の場に着く頃には いつも、涙が頬をつたっていた。
それでも、楽しいこともある。
しまいこまれ、忘れられている蔵書を見つけ、ひもとくことだ。
文字も綴りも、すぐに覚えてしまった。
いろいろなことを教えてくれる書物。 故郷である
海の底には、あまり無かった。
それらによって わたしは、たくさんのことを学ぶ。
たとえば 陸の世界での様々な作法、そして… この国の歴史。
周りの者たちは皆、口をつぐんでしまっているし、
ベジータだって、詳しいことは一切、話してくれないから。
だけど 一番幸せなのは、何と言っても夜だ。
夜になれば ベジータは、この部屋を、わたしの元を訪れる。
着ていた物を全て脱ぎ棄て、ひんやりとしたシーツの上に横たわる。
こうしていると まるで、波間に漂っているような気分になる。
だから、どんなに贅沢な生地のドレスより、裸でいるのが好き。
そう言葉にしたわけではないのに、ベジータは苦笑する。
「まったく、下品な女だ。」
唇が、どちらからともなく重なって、差し込まれた舌が絡み合う。
離れた後、ベジータは いつも、同じ疑問を口にする。
「何故なんだ。 舌を抜かれているわけでもないのに…。」
口がきけなくなったことについて 言っているのだ。
ベジータは いつも、灯りを点けたままで
わたしを抱く。
喘ぎ声すら出せない わたしの、顔を見ることで
反応を確かめているらしい。
話ができないことは、やはり つらい。
こうして、貪り合っている最中だって、訴えたいのだ。
もっと、もっと。 ああ、なんて気持ちがいいの。
ずっと ずっと、こうしていたいの。
あんたに抱かれることが大好き。
そして、あんたのことが好き …。
今 この時、わたしの体の真ん中からは、水の音が響いている。
彼による、ひどく丹念な愛撫のせいだ。
両膝を掴まれて、ぐいと脚を広げられる。
無防備に さらけ出された その個所に、彼の舌が差し込まれる。
音をたてて、掻き回される。
「…、 … !!」
わたしは まるで、打ち上げられた魚のようになっている。
それなのに さらに、強い力で抑え込まれる。
執拗に、続けられる行為。
どうして、こんなことをするのだろう?
しばしののち、その理由がわかった。
わたしの中から溢れ出して止まらないもの、それを残らず拭い取り、
彼が発する熱いもの、それによって埋め尽くそうとしているのだ。
数カ月後。 わたしは ひたすら、階段を上っている。
この城の、塔の天辺を目指しているのだ。
息は切れるし、足は相変わらず、ひどく痛んだ。
「…、 …。」
やっと 着いた。
もう 夕方だ。 上り始めたのは、お昼頃だったというのに。
でも そのかわり、紅く染まった 輝く海が見える。
この塔からは、海を一望できるのだ。
ああ、なんて 美しいのだろう。
夕焼け、きらめく海に沈んでゆく夕陽。
それはおそらく、この世で一番美しいものの一つだ。
城の女たちは皆、宝石という物に目の色を変えるけれども、
あんな物、まるで問題にならない…。
背後に、人の気配を感じた。
あわてて振り向く。 ベジータだった。
目元を拭う わたしを見つめて、単刀直入に尋ねる。
「戻る方法は、あるのか?」
「…。」
戻りたいか、と 彼は問わない。
あの日。
手に入れた薬を飲んで、人魚であることを捨てた日。
何者かによってベジータは、海に投げ込まれた。
それも、上がってこられないよう、手足に枷をつけられていた。
海の中で、必死に それをはずしているうちに時間が経ち、
わたしは陸の女の姿に変わった。
そして、泳げなくなった わたしを、ベジータが助けてくれたのだ。
向き合っている、彼の手を取る。
手のひらに、指で文字を綴る。
[ 方法は、無いわ。]
嘘だった。
多分、わたしの予想だけれど、占いババは
あの時、こう言おうとしたのではないか。
『愛していると言わせたら それで満足、そこで、人魚に戻って
終了じゃな。』
あの老女は欲深だけど、悪い人間ではないと思うから。
でも、 いい。
わたしは、戻る気はない。
敵だらけの この人を、一人ぼっちには決してしない…。
手のひらに、また文字を書く。
「ト、ラ、ン、ク、ス … 何だ?」
[ わたしたちの子供に、つけたい名前よ。]
それは わたしが男の子だったら、つけられていたはずの名前だ。
ベジータは、それについて返事をしない。
ただ、口の端に、微かな笑みを浮かべている。
そして、思い出したように こう尋ねた。
「おまえの名前は、何と言うんだ。」
ああ、そうだった。 すっかり忘れていた。
毎晩のように一緒に過ごし、伝える機会は
いくらでもあったというのに。
また指先で教えると、彼は すぐに口にした。
「ブルマ。」
わたしは すぐさま、頬を両手で包みこみ、貪るように唇を重ねた。
愛してる。
その一言を、続けることが できないように。
それから また、10年近い歳月が流れた。
無事に生まれてきた息子、トランクスは
ずいぶん大きくなった。
顔立ちはベジータに そっくりで、瞳は
わたしと同じ、海の色をしている。
あれから 変わったことと言えば わたしは、自分に合った靴を作ることを覚えた。
だから 今では、少しは まともに歩くことができる。
トランクスやベジータの履物、それに手袋だって作っている。
もしかしたら、身を守るための物も作れるのではないか。
そう伝えたら 苦笑された。
簡単ではないだろうけど、やってみるつもりだ。
敵の多いベジータ。
王となった今は、内部だけでなく 諸外国にも睨まれている。
かつて、わたしのために 政略結婚を拒んだことも、理由の一つであるらしい…。
今のところ 一人っ子である トランクスは、まるっきり
陸の人間にしか見えない。
でも ものすごく 泳ぎがうまく、驚くほど長い時間、海の中に潜っていられる。
いずれは わたしの故郷を、訪ねることができるかもしれない。
そうなったら、伝えてほしい。
海の底で暮らす両親に、そして かつての仲間たちに、
わたしが とても、幸せでいるということを。
それは わたしの、密かな願いだ。