162.『不思議な少年』
あわただしい朝、幼い娘の髪を結う。 自分の支度もそこそこに。
娘が生まれて変わったことは、そんな他愛のないことかもしれない。
自分のそれとよく似た質の髪に触れ、丁寧に整えたことがかつてもあった。
ふと思い出す。
大学生になった息子と瓜二つで同じ名だけれど、別人である少年を。
そしてその子を一人で育てた、もう一人の『わたし』のことを。
『わたし』の願ったとおりに未来は変わり、息子は平和な世界で成長した。
学校に通って友達をつくり、 一人っ子と諦めた頃に妹ができ、
厳しい父に、時おり軽口をきくこともある。
父親のない子にはならなかった。
それはきっと、『わたし』が何より望んでいたこと。
心を開こうとしない男に寄り添い続けて、「夫」と呼べる日が来ること以上に。
まだ朝食の席にいる夫に「行ってくるわね。」と声をかけ、
わたしは娘に目配せをする。
小さな彼女は父親に飛びつき、「行ってきます!」のキスをした。
娘と二人で笑いながら家を出る。
かわいい新たな強敵に、手を焼く彼を想像しながら。
思いもよらなかったであろう暮らしを、不運と思っていたって構わない。
だって、楽しそうに見えるんだもの。わたしの目には。
おそらく誰の目にだって。
車から降りて門をくぐると、黒い瞳の女の子が駆け寄ってくる。
「ブラちゃん、おはよーー。」 「あっ、パンちゃん。」
おそろいの帽子をかぶった小さな少女たちは、手をつないで園舎の中に消えていく。
「最近じゃ、こっちを振り返りもしませんね。」
寂しそうにこぼす若い父親に、笑いながら 「ほんとね。」と答え、
わたしは仕事へ向かう。
新しく生まれた命と、生かされたたくさんの命とともに、わたしは今日も生きている。
不思議な少年が訪れたあの日から、変わっていったこの世界で。