128.『お出かけ』
[ 他愛のない内容なのですが… この一家がやっぱり好きです。]
土曜日の朝。 普段よりも
ちょっとだけ遅く起きて、階下にある食堂へ向かう。
すると、「えーっ。」
という大きな声が、耳に飛び込んできた。 ブラの奴だ。
それに続いて、母さんの声も聞こえてくる。
「ごめんね、どうしても行かなきゃならないのよ…。
明日。 明日は絶対大丈夫。 そうしましょう、ねっ。」
どうやら、急な仕事が入ったらしい。
今日
ブラは、母さんと一緒に出かけるはずだった。
この4月に、ブラは小学生になる。 だから入学式に着る服を、見に行く予定だったんだ。
けど、それだけじゃない。
このところ、泊まりの仕事が続いていた母さんは、家に
あんまり いられなかった。
多分
今日は ゆっくりと、ブラのわがままを聞いてやるつもりだったんじゃないかな。
幼児用の、高さを調節できるチェアに座っているブラは、つまらなそうに口をとがらせている。
それに
よく見たら、まだパジャマを着ている。
身支度が面倒くさいわけではなく、食べこぼしで服を汚してしまわないためにだ。
おしゃれして、母さんと街に出かけるのを楽しみにしていたのだろう。
ちょっと
かわいそうになった おれは、妹に向かって言おうとした。
『かわりに、おれと
どっかに行くか。』
でもなあ、ちょーっと、懐が寂しいんだよなあ。
母さんに軍資金を
もらっておけばよかったな…。
そんなことを考えていたら、ブラが先に声をかけてきた。
「お兄ちゃん、わたし、お買い物がしたいの。 一緒についてきて。」
「買い物? もしかして、入学式で着る服か? それは明日
行くんだろ。」
「そうじゃないわ。 自分のお小遣いで、買いたい物があるの。」
そこで一旦
言葉を切り、ブラは向き直った。
朝のトレーニングを終えた、父さんが
やって来たのだ。
「ねえ、お願い。 パパも一緒に
ついてきて。」
「…。」
しばしののち。 父さんは
おもむろに口を開いた。
「何故
俺まで行かなきゃならないんだ。 トランクスがいるなら いいだろう。」
「よくないわ!」 強い口調で、ブラは
こう続けた。
「ママへのプレゼントを買いたいのよ。 三人で、選んであげたいの!!」
空は薄く曇っているけど、吹く風は穏やかだ。 もう
すっかり春なんだな。
そんな中、ブラは
おれと父さんの前を、ちょこまかと歩いている。
「プレゼントっていってもさ、母の日は
まだ先だろ。 誕生日でもないし、どうしてだよ。」
おれが問いかけると、こんなふうに答える。
「関係無いでしょ、そんなの。 いつも頑張ってるママに、ありがとうの気持ちを伝えたいのよ!」
…
誰かの影響か? 女の子はプレゼントが好きだからなあ。
まあ、言ってることは
もっともだけどね。
「さっさと済ませろよ。 用を終えたら、俺は
すぐに帰るからな。」
しぶしぶ
ついてきた父さんが、苦々しげに口を開く。
ブラは
ほんの一瞬 足を止めると、ものすごい勢いで走りだした。
「おいっ、どうしたんだよ!」
「お兄ちゃんもパパも早く! あそこよ、あの
お店!」
って、えー? ブラが駆け込んだ
その店は、ごくごく普通の、どこにでもあるドラッグストアだった。
おれと父さんが店に入って行くと、ブラは既に、化粧品売り場の一角を陣取っていた。
「これ! ここにある口紅。 これをプレゼントしたいの。 だって欲しいって言ってたもん!」
「へえ…。」
「だってね、ママ
かわいそうなのよ。
この間、色を確かめてるところに お仕事の電話がかかってきてね、結局買えなかったんだから。」
「ふうーん。」
値段を見る。 なんだ、ずいぶん安いんだな。
この店にだって
もう少し ちゃんとした、デパートにも売ってるような物も置いてあるけど。
そのことを口にすると、ブラの奴は
きっぱりと言い切った。
「これじゃなきゃダメなの!」
近くに貼ってある、宣伝ポスターに目を向ける。
あー
そういえば、TVでやってたCMを、やけにじっと見ていた気がする。
今
起用されているモデルのファンなのかもしれないな。
「ま、いいか。 どの色にするんだ?」
尋ねると、ブラは満足げな笑顔を見せて答えた。
「あのね、三本買うのよ。 パパとお兄ちゃんと
わたしで、ママに似合う色を選んであげるの。」
そして、「わたしは
もう決まってるわ。 この、可愛いピンクよ!」
軽やかに、ぴょんと一回ジャンプをして、棚から口紅を取り出した。
父さんも、特に迷うことなく
ある一本を選び取る。
見れば、ごく無難なベージュ系だ。
何か考えがあるのか、どれでもよかったのかは不明だ。
おれはというと
明るめのオレンジ系を選んだ。
肌がきれいに見えると思ったし、
ポスターやCMの中で微笑んでいるモデルの唇と、同じ色だったからだ。
なのに
それから数十秒後、レジで会計をしていたブラが、悲痛な声を発した。
「どうしよう!
お金が足りないわ!!」
…
おーい。 けど幸い、父さんがポケットから カードを出してくれた。
何か
あった時のために、母さんが持たせている物だ。
ほとんど、使ったことはないらしいけど…
「なんだと! どういうことだ!」
今度は父さんが、レジの前で揉め始めた。
「申し訳ありません。 カードでのお支払いは、五千ゼニー以上からになっておりまして。」
店員さんの、申し訳なさそうな声。 どうやら、価格が安すぎてカードは使えないらしい。
「しょうがないなあ。」
やれやれ。 結局、おれが払うことになるのか。
『あんたは
まだ学生でしょ。 あと もう少しだけ、辛抱しなさいね。』
そんなことを言って、人並み程度の小遣いしか持たせてくれない母さん。
『ちぇっ。 自分の時は
どうだったのさ?』
… それを確かめることは、もう
できない。
おばあちゃんたちが
いない中、仕事や子育てを頑張っている母さん。
そうだよな。 誕生日や母の日じゃなくたって、プレゼントをもらう資格は十分にあるよな。
おれは財布の中から、なけなしの紙幣を取り出した。
ビニール袋じゃ
あんまりだから、ちゃんと包んでもらうことにする。
「あっ…、」
そっちにある、違う色の包装紙の方がいいな。 多分その方が、母さんの好みだ。
ブラも
同じことを思ったらしく、口を開きかける。
でも
それよりも早く、父さんが命じた。
少し離れた所から、店員さんに向かってだ。
「ご苦労だが、包み直せ。 そっちの色の紙を使え。」
その日は夕飯時になってから、母さんは
ようやく家に帰って来た。
疲れた顔をしていたけれど、思いがけないプレゼントを手にして、とっても喜んでいた。
一夜明けた日曜日。
母さんからの呼びかけで、一家 四人で出かけることになった。
めずらしいことに父さんも、今日は
あんまり文句を言わない。
まあ人ごみを目にしたら、すぐに帰るって言い出しそうだけど。
ブラは昨日よりも
ヒラヒラした服を着て、髪にはリボンなんかも ついている。
おまけに、昨日
自分で選んだ ピンクの口紅を、薄く塗ってもらっている。
なんだよ、実は自分が欲しかったんじゃないのか?
ともあれ、さあ出発しようという時。
「ちょっと待って! 塗り直したいの。
今日は こっちの、濃いのにするわ。」
そう言って、おれが選んだオレンジの口紅を塗り重ねる母さん。
「出かけたいなら
さっさとしろ!」 不機嫌そうに声をかける父さん。
「あれ?」
その顔に目を向けると、唇に、なんだか
やけに艶がある…。
おれの視線に気づいた父さんは頬を染め、
あわてて口元を拭った。
「お待たせ。 さ、行きましょう!」
母さんの声かけで、みんな揃って玄関を出る。
「うーん、いい
お天気。 春、ってかんじね。」
うん。 少し風が
あるけれど、今日は よく晴れている。
空は、昨日 三本の口紅を包んでもらった包装紙と、よく似た色の きれいなブルーだ。