闇に降る雨

雨粒が落ちてきた。

 

人造人間の魔の手は いまや、都から遠く離れた山の中にまで及んでおり、

雨を避けられそうな洞窟も 木の一本さえも見当たらない。

仕方なく戻ることにする。 母さんが待っている、カプセルハウスに。

 

ドアノブに手をかけると同時に、勢いよく扉が開いた。

「トランクス・・! よかった・・。 急ぎなさい。早く 雨水を洗い流さないと。」

戦いに出向くおれのことを いつだって気丈に送り出してくれていた母さん。

その母さんが、今は ひどく取り乱している。

雨のせいだ。

ひと月ほど前から、至る所で降っている雨。

これは、死の雨だ。

植物を枯らし、河川を、海の水を汚す。

魚や動物が死に絶えれば、難を逃れた人々も生きるすべを失うだろう。

もう 本当に、おしまいなのかもしれない。

この地球も、 おれたちも。

 

こんなことになってしまった原因は、前世紀の負の遺産とも呼ぶべき、

ある施設が爆破されたことにある。

クリーンなエネルギーが作り出される前の時代、

地球には廃棄物の処理場として使われていた施設が点在していた。

何もかも破壊し尽くし、壊すものが無くなってしまった人造人間は、

隠されていたそれらを見つけてしまったのだ。

 

雨で汚れた体は、貴重な水を使って流さなくてはいけない。

シャワーを済ませたおれに、母さんは こんな話を始める。

「父さん・・ あんたのおじいちゃんはね、あの廃棄物を分解して、自然に帰す研究を進めていたのよ。

 C.C.社をわたしに継がせて、自由になった時間でね。」

そして、ぽつりと付け加える。

「本当は もっと夢のある・・ タイムマシンなんかを作りたかったんでしょうけどね。」

 

少し前のことだ。 

半壊のまま放置されていたC.C.は人造人間によって再び攻撃され、ついに跡形もなくなった。

同時に、完成間近だったタイムマシン・・・

母さんの最後の希望だったそれもまた、消え去ってしまったのだ。

生まれ育ったC.C.を失くした母さんは、以前よりも口数が減り、生気を失ったように見える。

母さんにとってC.C.は単なる家ではなくて、家族、そして 愛した男との思い出が詰まった、

自分の分身のようなものだったんだろう。

 

その母さんに向かって、おれはわざと こんな言葉をかけてみる。

「タイムマシンはイヤだな。 あれだけは無くなってよかったかもしれない。」

実を言うと、半分くらいは本音だった。

「トランクス、あんた 何てこと・・。」

「だって、直接は何も変わらないんだろ。 それに、」 言葉を切って続ける。

「途中で故障しちまって、時空の狭間かどこかを一人でさまようことになったら どうするんだよ。」

そして 尋ねる。

「もしも おれが戻らなかったら、母さんはどうしてた?」

 

「もし、あんたが戻ってこなかったら・・・ 」 

静かな声で、母さんは続けた。

「こう考えるつもりだったわ。 過去の世界の居心地が良すぎて、戻りたくなくなったって。」

「何、言ってるの・・?」

「かわいい女の子にでも引きとめられて、戻ってこられないんだって思おうとしてたのよ。」

「そんなわけ ないじゃないか・・・。」

考えられない。 母さんを一人残して、自分だけが幸せになるなんて。

「でも、そう思おうとしてたの。」

悲しげに目を伏せる。 

せめて わずかな間だけでも、笑顔に変えてやりたいと思う。

 

「かわいい女の子って、若い頃の自分のことじゃないの?」

おれは懸命に言葉を探した。

「今よりも若い母さんか。 会ってみたかったな。 さぞかし、かわいかったんだろうね。」

母さんの口元が ほんの少しだけゆるんだのを見て、心の底から安堵する。

そのついでに、こんな言葉を付け加えてみる。

「仲間たちは みーんな、母さんのことが好きだったんだろ?」

 

「そんなことないわよ。 何言ってんの・・。」

「そうかな。」  当たらずとも遠からず、ってやつじゃないのかな。

孫悟空さんは純粋すぎて、他の皆は紳士だった。

保たれていた均衡を破った唯一人の男、 それがおれの父さんだったんじゃないだろうか。

それに・・・

少なくとも あと一人、そう思っていた男がいたんだ。

その頃はまだ、子供だったけれど。

 

「悟飯さんは、母さんのことが好きだったんだよね。」

「・・他に相手がいなかったからよ。」

素っ気ない答え。 だけど否定はしていない。

「違うって、言ってたよ。」  

眉が少しだけ動く。  「ううん、違わないわ。」

首を横に振った後で、母さんは続ける。

「こんな世の中じゃなければね、かわいい恋人がいたはずなの。 彼にふさわしい年頃のね。」

きっぱりと そう言って、話を終わらせようとした母さん。

その細い腕を掴んで、やせた肩を抱き寄せた。

「トランクス・・?」 「寒いんだ。 冷たい水で体を流したせいかな。」

おれたちが今いるカプセルハウスは、いざという時のために母さんが持ち歩いていた物の一つだ。

C.C.を失って間もなく、毒が含まれた雨が降るようになった。

これが無ければ、おれはともかく 体力のない母さんは駄目だっただろう。

でも、それも もう・・・。

 

おれは身を屈めて、逸らそうとしている母さんの顔を正面に向けた。

「なに・・? あ・・っ、 」 

言葉が終わらぬうちに、唇を重ねる。 手入れもできず、荒れてしまっている唇。

昔はよく、頬に、額に触れてくれた 小さなそれを、思いきり むさぼる。

「何するのよ!」  唇は離した。 けれども、両腕の中に閉じ込めた体は離さない。

「キスだよ。 悟飯さんともしてたろ。」 

「あれは・・。」

「おれ、あの時 見てたんだ。」

ずっと思い続けていたことを、おれは口にしてしまう。

「つらかったよ。 何故だかわからないけど、ものすごく苦しかった。」

 

本当に、どうしてなんだろう。 

大好きな母さんと、大好きで尊敬していた悟飯さん。 喜ぶべきことだったはずなのに。

「ごめんね。」 消え入りそうな声で母さんは言った。

「あんたを傷つけるつもりは なかったのよ。」

「・・・母さんも、悟飯さんのこと 好きだった?」 

「もちろんよ。」 深くうなずく。

「男として?」  「・・そうね。」  

それは嘘だと思った。 少なくとも、半分くらいは。

母さんの心は、今でも父さんだけのものなんだ。

思い出を塗りかえる前に、悟飯さんは この世を去ってしまったのだから。

 

「もう、離しなさい。 わたしたち、親子なのよ。 こんなの おかしいわ。」

そう言って母さんが おれの腕を解こうと もがいた、その時。

おれの中で、何かが はじけた。

「ちょっと、 トランクス!?」

あまりにも軽い体を抱き上げて、ソファを兼ねたベッドに下ろす。

覆いかぶさるおれを、母さんは必死に押し返そうとする。

「なに考えてるの。 どきなさい。」 

「さっき言ってたことだけどさ、何がおかしいっていうの?」

「え・・・?」 「親子だと、どうしていけないの? 誰がそう言ったの?」

 

そうだ。 おれが物心ついた時には、もう誰もいなかったんだ。

政治家も、教師も。 そして、多分 神様も・・・。

 

仰向けにした母さんの、シャツの胸元を開く。

「やめなさい。 やめて・・・ 」 「いやだ。」

ずいぶんやせてしまったけれど、相変わらず豊かで、真っ白な胸。

「天国に、行けなくなるのよ・・・。」

・・天国、か。 「母さんは、そこへ行きたいの?」

おれの一言で、母さんは身をよじるのをやめた。

「そこには、母さんの会いたい人は いないだろ?」

「・・・。」

「地獄って、どんな所なのかな。 だけど 誰かがいるのなら、ここよりはましかもしれないな。」

C.C.は、おれの故郷でもあった。 故郷をなくしてすぐに、この雨が降るようになった。

そして・・・  このところ ずっと、生きている人間を見ていない。

生き残っているのは もう、おれたちだけなのかもしれない。

「おれが、連れて行ってあげるよ。」

 

胸に顔を埋めて、やわらかな匂いを吸い込む。

こうしていると、ずっと昔のおぼろげな記憶が蘇ってくる。

今と同じように 母さんの胸に吸いついていた、うんと幼かったおれのことを、じっと見つめていた人。

あれは、いったい 誰だったんだろう。

悟飯さん、 それとも、まだ生きていた父さん・・・。

 

母さんは もう、抵抗しない。

こういう世界だけしか知らずに育ち、

仇討ちすら できずに死んでいくおれのことを、あわれだと思っているのか。

あるいは薄暗がりの中、おれの顔は父さんの顔に見えているのかもしれない。

「ブルマ。」 

初めて、名前を口にしてみる。

頬を濡らしている涙を拭う。 唇で、舌先で・・・。

 

夜になっても、雨はまだ 降り続いていた。