179.『睫』
「チッ・・・」
数日前から、重力装置の調子が悪い。
叩きつけるようにスイッチを切り、俺は部屋を出た。
この、でかい家の中を探すのは面倒だ。使えそうな奴がいないか、気を探る。
くそっ、 こんな時に限って誰もいないのか。
そう思った時、階下にあの女の気配を感じた。
戦闘服か重力室のことしか口にしない男が、またわたしに命令をくだす。
今はとても言い返す気になれない。
買ったばかりの服が汚れるから、と着替える気にもなれないわたしは
黙って男の後をついていく。
工具箱を開くと、作業用の手袋が入っていない。
傷んだからと、この間捨ててしまったことを思い出す。
「あんたのそれ、貸して。」
ベジータは手袋をはずして、黙ってわたしに差し出した。
いつものおしゃべりは鳴りをひそめて、女は黙々と作業を始める。
妙だが、まぁ、いいことだ。 俺にはとにかく時間がない。
本当は今頃、こんなことをしてるはずじゃなかったのに。
ヤムチャとわたしは、もうダメかもしれない。
何人かでいる時はともかく、二人になると・・・。
他の女がどうとか、そういう問題じゃない。
結局、わたしと一緒になりたくないんだと思う。
名のある科学者で、C.C.社を継ぐわたし。
その夫、 そう呼ばれることが、ヤムチャはイヤなんだわ・・・。
そんなふうに考えると、涙があふれてきそうになる。
そうならないように、わたしは何度もまばたきをした。
「あっ・・・ 」
「? どうしたんだ。」
作業の途中で、女の手が止まった。 工具を床に置いてしまう。
「目、 痛いの・・・。」 「目だと?」
「睫が入っちゃったみたい・・・。 痛くて、開けられない・・」
この家には今、ほかに誰もいない。
仕方なく顔を近づけて、自分の目をこらし、手を伸ばす。
「痛いっ。 もう少し、優しくしてよ。」 「うるさい。 じっとしてろ・・・ 」
息がかかるほどに近づいたベジータ。
その瞳と髪は本当に真っ黒で、まるで光の無い暗闇みたいだと思った。
孫くんだって・・・ ヤムチャだって、
同じ色のはずなのに、何故か全然違う気がした。
「あー、 やっと治ったわ。 ありがと。」
少しだけ、元気が出てくる。 どうしてなのか、わからないけど。
「フン、 修理はどうなったんだ。」
「一応処置しておいたけど・・・
一度きちんと調整しないと、危ないわよ、これ・・・。」
そんな暇があるか。
それに答えず、女ははずした手袋を俺に返した。
「これもありがと。 わたしには少し大きかったけど、助かったわ。」
「もともと貴様が作ったものだろう。」
「だけど 今は、あんたのものだから・・・。」
そう言い残して、女は出て行く。
ふと 自分の手に目をやると、指先に女の睫がついたままだった。
やけに長いそれは、女の髪の色と同じ、この星の空の色をしていた。
「・・・おかしな色だ。」
何故か俺は、はらわずにそのまま手袋を着けた。
女の手の温かさが、まだ残っていた。
彼女の青い瞳を縁取っている、長い睫。
その一本一本までが全て彼のものになる日は、もうそこまで来ていた。
それから二人は長い時を共に過ごすことになる。
星の見えない夜も、 雲ひとつない朝も。